深川勝三監督は、1924年東京で生まれたとされています。「ろう者映画の曙」と言っても良いくらいエポック的な存在でした。
深川監督は1985年脳膜炎により逝去したが彼の語り継がれた物語は、やがて大きな伝説となってきます。
昭和36年に完成された「楽しき日曜日」は、映像撮影も全く未知のろうあ者達が力を合わせ制作した、初めての作品でした。驚いたことにこの作品は、今では珍しい8ミリフィルムで撮影されました。このフィルムは1本3分しかなく、当時フィルム代も現像料も高く、費用がかさむと言われたものです。
手話で生き生きと演技するろう者を演出撮影し、フィルムをつなぎ合わせ編集する。気の遠くなるような作業をこなした忍耐の人は、今は亡き深川勝三監督。彼が生きていた間は、最も大変な時代でありました。
仲間たちが、毎日曜ごと集まり、仕事や生活の苦労などを打ち明け、模索しながら励ましあっていたのです。その中で「名もなく貧しく美しく」公開のきっかけで、演劇仲間から映画づくりの話が持ち上がり「睦聾唖映画演劇研究会」を立ち上げました。撮影素材もなく、仲間たちの大事な8ミリカメラを調達提供、会費を出し合って制作費用にするなどの工夫を、情熱でこなし、毎日曜日を撮影制作に当てたのです。時には仕事の都合でスタッフが欠けたり、野次馬に邪魔され、「オシの映画」と見物人に騒がれ、辛い思いをしたこともありました。彼の作品はあちこちに昭和三十年代の雰囲気や、当時のろうあ者のあり方を知ることが出来ます。それに、今はもはや死語になっている手話の語彙がいくつか見られますが、これはろう者の歴史を語るといってもいいくらい貴重な作品だといえるでしょう。

     深川勝三

  (1924年−1985年)




楽しき日曜日

                   1961年度(昭和36年)制作 100分 8ミリ白黒フィルム サイレント
日本で初めてろう映画を作ったとされる「睦(むつみ)聾映画演劇研究会」は、非常に労苦を重ね、遂に第一回作品『楽しき日曜日』を完成した。名作『名もなく貧しく美しく』の影響を受けて制作したというが8ミリフィルムで数時間撮影したとは驚きだ。このフィルムは1本3分しかなく、不経済で映画には不向きだからである。しかし、かなり浪費にも関わらず、出演者の表情が明確に描かれているのは、努力の賜物である。作品は、4話のオムニバスから成るが、昭和30年代の衣食住の様子が見られ、懐かしいばかりである。また、今はもはや死語になっていた手話の語彙がいくつか見られた。まさにろう者の歴史というべき貴重な映画であろう。

〈あらすじ〉
昨日からの雨から、からりと晴れたヨコハマの三ッ池公園で一人の男がぬかる坂道を上がってくる。あるろう者グループのピクニックと野外座談会をかねた集いに遠路のため、遅れて来たのだ。このグループは毎月一度は集いが行われている。遅れて来た男は、グループの仲間の一人に、前回の欠席の理由を聞かれ、「友人にバレエの招待券をもらったので観てきた・・・音楽は解らないが踊りや演技はとてもすばらしかった・・・」と答える。その会話がもとで色々な話が始まり、過去、現在についての経験や抱負其の他を思い思いに語り合う。個々のシーンを夫々と幻想的に物語りながら、自己責任などさりげなく訴えるのだった・・・




三浦浩翁半生記

         『三浦浩翁半世記』(前編)  1962年度(昭和37年)制作 100分以上 8ミリ白黒フィルム サイレント
         『三浦浩翁半世記』(後編)  1963年度(昭和38年)制作 100分以上 8ミリ白黒フィルム サイレント
         『三浦浩翁半世記』(完結編) 1964年度(昭和39年)制作 100分以上 8ミリ白黒フィルム サイレント

睦聾唖映画演劇研究会の初代会長であった三浦浩氏は、明治19年秋田県に生まれ14歳で東京盲唖学校(現・筑波大学附属聴覚特別支援学校)に入学し、苦学の中、やっと文章を綴れるようになった。そして念願の教師となり、ろうあ教育に身を捧げ、多くの障害者の希望の灯となる。横尾、藤本氏とともに日聾協の三羽烏と謳われた。昭和37年、この映画の完成を待たずに逝去。


           三浦浩  翁                                睦聾唖映画演劇研究会
                                            手前右からの2番目は深川監督、三浦浩 翁。           
〈あらすじ〉
幼時の高熱で聴力を失った浩は、父母の家庭教育を受けながら成長した。15歳のとき、医者の紹介で秋田から上京し、東京盲唖学校へ入学する。
無学だった浩は、日毎の努力で成績も上がり、18歳で初めて文章を綴れるようになり、早速秋田の両親へ手紙を書くのだった。一方学校生活では、優秀な成績をあげていく浩を恨む学友たちに仲間はずれにされる。大切な教科書や親からの送金をなくし孤独感を暮らせるが、「負けてなるものかっ」と心に誓うのであった。


たき火

                 1972年度(昭和47年)制作 160分 8ミリ白黒フィルム サイレント
第4作『三浦浩翁半世記・完結編』が完成し、次のステップとして新たに制作を進めたのは『たき火』だった。昭和38年10月『たき火』制作発表、昭和41年にスタート。
しかし、深川監督の度々の入院で、撮影が完了したのは昭和47年。発表してから10年という歳月が経っていたが、深川監督の回復は思わしくなく、完全に休止したまま、13年後(昭和60年)に療養の甲斐なく逝去した。辛うじて残った『たき火』のフィルムは現像済みで手付かずのまま。深川監督が率いた「睦聾唖映画演劇研究会(現・睦ろう映画保存会)のメンバーが『たき火』に日の目を当てたいと、プロディアに再編集を委託した。しかし、『たき火』には脚本という台本は存在せず、深川監督が頭の中で構成して自ら指揮した。かっての出演者も今はかなりの高齢で、彼らの僅かな記憶を頼りに、編集作業に当たった。
当時のゆっくりしたテンポを現代の流れにマッチする様、再編集してアクション性を高め、2時間以下に収まるようにした。しかし、フィルムは保管の状態が著しく悪かったため、フィルムの痛みや品質の劣性が生じてしまい、3分の1ほどは使えない状況になっていた。そのため、シーンの繋ぎが苦心と工夫の連続というハプニングが発生した。
特筆するべきことは、東京都庁が有楽町にあったり、有名メーカーのロゴも今と違っていたり、交通や町並みなど失われた昭和時代の面影が映像の中に多く残っていた。
一番見所は、深川監督本人が出演しており、柔らかくて滑らかな手話表現と彼のありし日の姿、昭和時代のろう者の有り様が確認できる貴重な作品である。
〈あらすじ〉
父親のクリーニング屋を手伝っていたろう青年は、家庭不和の暮らしがいやになり父親の許可を得て北海道を飛び出し、大都会の東京へ向かった。
憧れの東京で、田舎者とバカにされた青年は有り金をはたいて服や靴を買う。都会人だと見栄をはり歩いていた彼は、通りかがりの男に足を踏まれる。
そこにいた靴磨きの若い女性が青年を手招きした。彼女はろう者だった。青年は彼女に手彫りホルダーを送ったのだった。
これが縁で、青年は運命の渦に巻き込まれていく。奇縁そして家族間の葛藤、青春、昭和時代のろう者の自立と成長を描く。

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